どうぶつギャラリー
バカ親
満開!
ペット、その生と死

弱いもの達のため、けして目をそらしてはならないはず

   追   悼

じつは、「センパイ」が亡くなっていた。

 このかん、更新する気がすっかり失せてしまっていたのは、あんなに元気だった【宇野センパイ】が他界してしまったからだった。
 それは突然だった。ウチの兄弟のビルにふらりと、どこからともなくやって来たのも突然だったけれども、短期間のうちに強烈な存在感を「猫やヒト」に見せ付けていたかと思うと、突然、歩けなくなった……。
 後肢二本からチカラが抜け、ダラリと引きずるのみで、無理に歩こうすると、それは人間が【腕立て伏せ】をする姿勢で前足二本足で、《下半身がズルズルとついてくるだけ》であった、恐ろしいものである。

 獣医によれば【血栓】との診断だった。
 隣のウチの”所属”だった猫だけど、フラリとボクの店にやって来ては勝手に寝てゆく……その人間を簡単に見透かして、決してヒトにコビない堂々たる態度からボク(の家族)は勝手に【センパイ】という敬意がこもった愛称で呼んでいた。

 やっぱりダメだ、書いていても涙が止まらない。

まさか、センパイにかぎって病気…などとはまったく無縁だと一家の誰もが思っていたが、病魔は突然やって来た。表情も元気そのもので直前まで近所のネコ狩りをやっていたほどだったのに。 流れ者のようにやって来たこの街だけれども、こうして夜も昼もテリトリー内で他の猫らへの”示威行動”となると容赦はなかった……というよりロクでない程だった 背骨内側の大動脈に血栓が詰まった?との所見、とても手術では無理な部位だ。
足動く度にスーパーマンのように引きずるので、足の甲にできたタコが痛々しい
兄の家の祭壇
中央手前に好物だった【またたび粉】(緑色のフタ)が涙をさそう。
《あの子はきっと「人間の生まれ変わり」だね》と誰かがつぶやいていた。

防ぎようのない別れ

 私事だが、ボクは親達の関係で赤ん坊の頃から中学生の時分まで、犬猫はもちろん、東京に住みながらも「馬(競走馬)」ともずっと仲良しでやってきた。
考えてみたら、サルまで最低一匹は生活環境の中で飼われていた動物だった(ヘンなの)。
 馬などは、馬房を訪ねてゆくこちらの足音や、自家用車のエンジン音を聞き分けて、なついてくれるものだった。
 それがレース中に、足を一本でも骨折したら…当時は即、【殺処分】の運命だった。
 そこまで過酷な生涯なのに、運よく永らえたところで、あの子達は実働「3〜6歳」がピークで、大井競馬で走っていたらその後は高崎、そして…笠松、とか高知だとか、生活レベルは下がってゆく。

 「オープンクラス」で大井競馬で全盛時は1・2を競っていた、売却済みの愛馬を(04年暮れで廃止された)高崎競馬場にたずねて行った際、寝るためのワラが(大井では馬が沈むほどだった)湿っているものがコンクリの《床にところどころ貼り付いた程度》しか積まれておらず、小学生のボクがこの”みじめな旧友との再会”で、現在の宿命に思わず涙させられたほどで、これ以降、親達が競馬ビジネスから手を引いてゆくひとつの要因ともなった。
 そのように、ボクにはいくらでも昔から、愛を分かち合ったあらゆる動物たちとのつらい別れがあった。

(夏はクソ暑いあの塩原温泉の坂道を、天幕を張った馬車に観光客を7・8人載せてあえぎ登っていた馬…それが「皐月賞優勝馬」の成れの果てと、識る人は少なかった。この子はけして「酒におぼれ遊興に走り」落ちぶれたのでなく、それ以降、人間の喜ぶ成績を上げられなかっただけ…の末路だったのだ。[今は三代目])

 ほんとうに《わが子のように犬やネコに尽くし、交歓が生きがい》という方たちがいくらでもいる。
 その多くのケアぶりにはこちらもただ頭が下がるばかり…と感激させられる美しい光景にも出会うのだが、不幸にして寿命がやって来て”その子ら”が亡くなる時を迎える(突然の病死/事故死もある)。

 ところがきまって、《もうこんな悲しい別れはイヤだから》「ペットを飼いたくない」と愛猫家、愛犬家を金輪際、返上してしまうケースがとても多い。

 だけど、それはとても《自分勝手ならぬ「人間勝手」》なだけなのではないか?

 解りにくいだろうか、つまりそんな喪の服し方なんて、【人間社会へのミエ】みたいなもので、そんな事で”義理”を済まされたからといって、「死んだニャン子やワン太郎がいつどこで喜んでいるのだ」ろう?

 「どこにも”義理”を果たしていない」このことに一刻も早く気付くべきだ。目を覚ませ!

     気の毒な、行き場のない”か弱い生命”はいくらでも現世に生きているではないか!?

 幻想かもしれないけれど、そうした哀しみの殻の中に閉じこもってしまった方々(やボクら)という人種は、他の人間の中でも彼ら弱い立場の動物達にとっては少なからず、「言葉を話せない連中」の気持ちや要求を《理解してやれる能力》を、”犬猫たちによって授けられてきた”特殊な才能を貰った恩義に果たしているのか、いないのか?

 同じ人間でも、少なからず《動物など眼中にない人種》に比べたら、ボクら(=理解者)は彼らのおかげで偉大なる【自然】と接することができて「与える愛」「与えられる愛」は学んでいる。
 それだけでも得がたく、計り知れぬほど価値は大きいはずだ。

 イヌやネコ……こうしたボクら人間への依存度の高い動物たちが「絶滅した」ならまだしも、依然として貰い手を求めて多くの善人たちが右往左往してこいつらへの救済に手を貸してやらなければならない……のはご存知だろう。ひどい人間もいくらでもいる。

 ボクらは「彼らとのつながりが持てる”異能の”外交官」と云って良い。
 彼らが愛や食料に飢えている以上、そことをつなぐ外交官はいくらいても足りないのが現状…だとは思い直してもらえないか。

 A国の外交官が、B国の外交官Z氏と知り合い、仲良くしていたのに、そのZ氏が退任したら《もうそこの国民とはつきあって行く気がしなくなった》と勝手にリタイヤ決め込むようなものだ。

 亡きペットに忠義を尽くしているような人こそ惜しい人材が多い。
 彼らは多くをその亡きペットに学んできた、それを活かしてさらに別の個体を”より深く”愛でることができるのに、惜しい、。動物たちにしたら本当に悔しいだろう。

 一度、動物と共にあって、死を見送ってあげたなら、《次の個体》にはもっと愛してやっている……と思っていたら、”前よりも格段に”動物の側からのレスポンスがディープに戻ってくるようにきた…そういうものである。
 彼らも決して《与えてもらう》だけではないのである、ナメてもらっちゃあ困る。

 かならずやそのことにはビックリさせるだろう。
 双方とも、人間は《亡きわが子》。ペットはペットで《亡き先達》への感謝をする事になる。

 もし万が一、「ならなかった」ら、すべてはボクが責任を負いましょう。

 災害地の人を思うことは誰でもできる。不幸な相手や不幸な自分を見たくない…から泣いているだけ……これでは何にもならない。これと同じです。


一瞬、伊良部かと思ったが、ウリ坊も遠くの空のセンパイを偲んでいるのだ


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