あくまでも”寿退社”というカタチで、ネタ切れの前にまんまと逃げ切り勝ちを拾った格好であります。
思えば横浜ベイスターズのリーグ優勝を報じる号から開始、今季のイチローのメジャーデヴュー号で閉幕…という年月の間、球界唯一の業界誌上でカラー見開きのスペースを毎週ドカンと、撮影と文らしきものを拙劣ながら続ける…などという大それたことを一人でまっとう出来ましたのは、当然ながら皆様のご支援なくしては考えられない事であるのは明らかです。
どうもありがとうございました。
そもそも、別の用件でやって来た桐生邦雄記者(現「近代柔道」編集長)が小生の撮り貯めてきた日米の苦労人たちの愛用品の鑑定用資料写真を指差して、『マエノさん、これで”野球人の品だけ”の連載ができませんか』とのたまったのが出発でした。
『ああ、こりゃ半年で終わるな…』との胸算用だったのに、これを「横開き」の同誌で当該2ページだけ『縦置き』にセットする…という、保守的な同誌の中での革命的なページとして懸命に”粉飾”して下さったのが資生堂・パルコなどの広告を手がける畏兄、鬼澤 邦氏の名ジョッキー騎乗あってこそじつに「125回」もの長丁場の逃げ切り勝ちにつながったのです、シメシメ。
次週[124回]は小生が人生の多くを学んだ川崎球場の案内人、水上選手の話、最終回(3/21売り)はイチローさんから「メジャー入り第一本目」をアリゾナで、あえて『最終回用に』と提供された一本を全マスコミに先駆けて紹介させて戴き、幕を閉じる流れです。
あと二回ですが、ご一緒にお立会い下さいますでしょうか…。
(同バットはいつものように、その都度、恵まれない方へと全額が寄付されるオークションにかけることになります。)
幸か不幸かこの連載、編集者(校正以外)要らず、まったく一人で写真撮影と文を埋める作業…これは出版界の方々がア然とすることのようです。ヘタは下手なりに相当にくたびれるものです。おかげですっかり髪も抜け落ちてしまいました(笑)。
ただそのおかげで、かなり”自分臭”のアクが強い連載となったのは功罪両面あり、望むところであったのは確かです。
我田引水になりますけれども、これだけ続いたおかげ、多くの身に余るお言葉も寄せて頂きました。イチロー・清原両氏らからは『あのページは参考になるから読む』(!)、また『故郷の親から初めて偉いと言ってもらえた』という若手にも頭下げられ、生きていて本当に良かった。そう思いました。
また何よりも嬉しかったのは「日陰に廻っていた」各メーカーの職人さんたちが喜んで支えて下さったことです。
良い品には、その質に平行した正しい評価が下されるべきです。
彼らは世界に冠たる折角の逸品を作りながら、陽に当たるのは常に選手のおかげ…、業界はそうした道具の背景が《日照ゼロ》でもはばからない体質だったのです。そこへ、少なからず一石を投じる事だけはまっとう出来ました。
さらに連載を通じ学んだ最大のものは『品物を透視してその人物をプロファイリングする…』といった人物観察の、それはウキウキするような手法でした。
いかにこの角度が正しかったかは、連載開始後2年目にウリ二つの(現在は『文士の逸品』という[笑])モノクログラビア企画を”天下の”《B藝S秋(仮名)》が立ち上げ、現在も人気企画(?)として臆面もなく継続している…というのは最大級といっていい”勲章”といわずして何と申しましょうか。
一見されると笑えますが、じつに立派な”亜流”をトレースしているさもしさをアソコが(笑)手を染めていることです、ありがとう《文G春J》…あ、バレちゃった。(欄外:註)
それにしても賢明な皆様の前では、いかにも何か”ウラがありそう”な「最終回の告知」…も半分露呈しているようなものではありますが(笑)、まずは(自分にとっての)大事業の終焉にふさわしい感謝の言葉に代えさせて戴かなくてはなりません。
近々、追ってご連絡差し上げます(汗)。特にご多忙により、週刊「ベースボール」での連載をご高覧戴く機会のなかったお方のためには、とりわけ”耳より”な情報をご報告できると存じます(笑)。
どうもありがとうございました。
このご挨拶をもちまして、ようやく最終回を迎えられます。
2001年3月9日(サンキューの日)前野 重雄 拝
ご各位様
雪解けの山々から、今を盛りとばかりに杉の木立の花芽も満開となりました。まるで霞のようにたなびき来たる花の粉が、”イヤ”と口に出るほどたっぷりと春の訪れを告げる今日この頃、皆様に於かれましてはますますご健勝のことと存じます。
いつもお世話になります、前野重雄でございます。
さて、私儀週刊「ベースボール」誌上におきまして約3年の長きにわたり連載を続けさせて戴きました2ページの見開き写真コラム、《球界逸品館》が3月21日売り号をもちまして晴れて最終回を迎えることとなりました。
本HPにおける写真文章等の無断引用を禁じます。特に週刊「ベースボール」編集部は要注意!
それに多くの皆さん
おっかしいなあ
マクグヮイア98年バット!
95年グラブの血
同年スパイクの穴
94年イチローヘルメット
【ゼロの記念日】
写真素材=”背番号[00]マイナーリーグの野茂用ユニフォーム”を前に 《球界遺産》未掲載作品
98年、突然の《野茂放出》報道には多くが度肝をぬかれた。
さらにオフの《メッツ解雇》と、メジャーの衝撃的評価が続く。
表向きは野茂の意思でド軍から出た…し、メッツの契約提示に「合意できない」から…だ。
95年渡米時から繁盛していたはずの優良銘柄《竃茂》の”倒産劇”に日本のファンは直面し、少なからず、彼の地の球界と自分らとでは、野茂をめぐり評価がどうも違うらしい、メジャーの現実を初めて見た。
当初から彼には演出が付きまとい、ポジティブな評価ばかりが選別され海を越え、報道されてきたことは事実である。
日本のファンはそうした演出の存在じたいを知らずにいる。
それは不公平で、不幸な現実だ。だからボクは逆側の情報も書くように心がけた。
だがメッツ解雇後、野茂が日本球界の甘い復帰ラブコールを拒否し、文字通り裸一貫から、メジャー(再起)を目指す若者の一人に戻り、苦難の一年余を送った事実をこそ、報道すべきだ…とボクは思う。
自分の知っている範囲では、経営権を外部に売却したド軍は、野茂の放出を早々と内定しつつシーズン開幕を迎えた。
ホーム球場での先発中継を眺めるボクや、わがスタッフは画面を指したまま凍りついた。驚くべきことに98季、野茂に支給された新品の白いホーム用ユニフォームの背中、見なれた[NOMO16]のロゴたちがひん曲がり、野茂の背中に縫い付けられていたからであった。
そんな屈辱的な手抜きを、ド軍は結局六月五日の退団まで修正せず、野茂をホームのマウンドに立たせ続けたのである。
ボクは”日本人の恥”みたいな人間だが、さすがにこのホーム用(多分二枚あるはず)だけは要らない。
だが新監督ビル・ラッセルは責められぬ。野茂の戦力低下は数字が物語っていたのである。
メジャーのスコアラー(おそらく)全員は『当時の野茂は最低』で戦力外と、声を揃えたろう。
また同時に『よくぞ復帰してきたものだ』とも称えてくれよう。
というのも、たとえば98季、浴びた被安打の【九割】が《中から外(角)球》だった(!!)ことをみても、『外角球が甘い野茂の欠点』をメジャー全体が学習していたことに無頓着だったのだ。
97〜98(無作為抽出)季の数字を挙げよう[(数字)は内角球]
被安打=センター前【48(5球)】、ライト前【46(6)】、レフト前【51(9)】。被本塁打はバックスクリーン含む左翼側席に15本中(1)、右翼側席も13本中(1)。
で、その《内角球》は昨今メジャー審判は厳しく、とらないため、打者が野茂の内角球をことごとく見送ってくるのである。
故障だけでなくカブスからはマイナーでの"追試宣告"の屈辱まで背負い、やってきた2Aのハンツビルスターズでは、《7回を五安打七奪三振》を"東京出身"(大阪だよね。)の野茂が挙げた…と今もその防御率0,00をその《町球団》は誇らしげに掲げている。
『内角球のコントロールと、外角球の武装』課題は残ったままだ。このハンツビルでの一試合で着た背番号[00]もさることながら、その日がメジャー初登板の記念日《5月2日》であることも何かの因縁を思わせる。
イチロー・清原さん
SPA!
これはまさに”ナゾだらけの本”である。不思議な事に大手の本屋さ
んに並んでいない。地方は壊滅的状況だそうだ。また注文してもらっても何ヶ月も待つ(千葉の親戚談)。「発売日前に予約していたのに納品は一ヶ月後」(人気メルマガ”野球小僧”編集長記)…出版界さらにその流通は複雑怪奇である。
誉めて下さった皆さん
TV朝日「ほんぱら!関口堂書店」
吉田照美の「ヤル気MANマン」
うえちゃんテリーの乗ってけラジオ
週刊ポスト元編集長関根進さん
(順不同)
紀伊国屋新宿南店・梅田店
八重洲ブックセンター
J-Wave
明るい次
ペー)ジへ
野茂忘れ得ぬ”メジャー初スパイク”